道端の大量のニワトリたち
昨夜は夜中に目を覚まし、たぶん2:00ごろまで起きていたと思う。
外はクラクションが鳴りっぱなしで、中々寝付けなかった。
いつの間にか、また寝ていたようで、気が付いたら朝の7:00になっていた。
外出して朝のサダル周辺を歩いてみよう。
とりあえず、ゲストハウスを出て北に向かってみる。
ニューマーケットという大きな市場があり、ニューマーケットの周辺も人が多くてにぎやかだ。
ニューマーケットに向かってのんきに歩き出すと、のっけから衝撃的な光景を目にすることになった。
道端に大量のニワトリが並べられている。
大量も大量。
道の両脇を、白い羽のニワトリたちが埋め尽くしていた。
バイクや車の後ろにも、縛られた大量のニワトリたちが。
ニワトリたちはこれから方々に売られていくのだろう。
考えてみれば、この光景も当然だ。
コルカタには無数のカレー屋があり、大体の店でチキンカレーを提供しているはずなので、コルカタ全体で毎日の鶏肉の消費量は半端ないはず。
日本だって鶏肉の消費量は多いので、これと同じことがどこかで起きているはずである。
コルカタではあからさまに行われていることが、日本では覆い隠されているにすぎない。
バンコクのマハナーク市場に行った時、市場の生々しさについて書いていた。
マハナーク市場はかなり生々しく感じたものだったが、ここの光景は、マハナーク市場がかすんで見えるほど生々しかった。
昨日、昼にこの辺りを歩いた時は、ニワトリなど全く見かけなかった。
朝にニワトリの売買が行われた後は、道がニワトリの羽と糞だらけになっている。
それがホースの水で洗い流され、痕跡は消えてしまうのだ。
道端で物乞いの人から写真を撮るよう言われる
そんなニワトリの様子を見ながら歩いていると、物乞いの人に会った。
立ち止まって硬貨を渡す。
すると、その人が両手と指を使ってカニのようなジェスチャーをし始めた。
何だろう。
毛ガニだろうか。それともタラバガニか。
そんなことを考えていると、「フォト」と言われる。
自分の写真を撮れと言っているのだ。
私が先ほど、ニワトリが並べられている光景を撮影していたので、それを見かけて写真を撮るよう言ってくれたのだろう。
(このブログに載せる人物写真は、人から許可を得る得ないに関わらず、基本的にモザイクをかけることにしている。)
物乞いの人たちのヒエラルキー
写真を撮らせてもらった物乞いの人は、お茶目だが理知的な目をしていた。
そういえば、まだ朝なのに、彼の手にはそこそこの額の硬貨が乗っていた。
彼がいる場所は人目に付きやすいので、そのせいもあって結構稼げるのかもしれない。
伝聞の伝聞になってしまうため、ちょっとややこしい書き方をするが、蔵前仁一さんのあの日、僕は旅に出たという本によれば、石井光太さんの「絶対貧困」と言う本に、
物乞いには外見の悲惨さによってヒエラルキーが
ある、
というような記述があるらしい(引用は全て「あの日、ぼくは旅に出た」からのものです)。
ヒエラルキーの中で高い位置にいる人たちは、人の集まりそうな良い場所で物乞いができるし、そうでない人たちは、
実入りの悪い場所に追いやられ
てしまうそう。
この本の記述を覚えていたので、私に写真を撮れと言ってくれた人は、街角の人通りの多い場所にいたから、ヒエラルキーの上の方にいるのかもしれない、と何となく思った次第だ。
実際のところ、ヒエラルキーについて、そういう物があるのかどうか、この旅を通しては明確に分からなかった。
私が旅をした期間が短く、訪れた場所も少ないので、もっと旅をしてみないと分からない。
インドの大らかさ
ただ、「あの日、僕は旅に出た」の記述の中で、確かにこれは、と深く納得した部分があった。
インドについて、
この国では物乞いがただ悲惨な脱落者ではなく、社会の構成員であると感じる
という部分だ。
今までに会った物乞いの人たちは活き活きとしていたし、強かで、悲惨な感じは全くなかった。
物乞いの人たちが、通りを歩いている人と親しげに話しているのを何度か見かけたこともある。
これがインドという国(に住んでいる人たち)の大らかさ、懐の広さなのだろうかと思った次第だ。
物乞いの人たちについて思ったこと
サダルに来て二日目で、そこそこの人数の物乞いの人たちに会った。
街中を歩いて回っている人もいるし、一か所に動かず座っている人もいた。
インドに来る前から、街中に物乞いの人たちがいるというのは、色々な物で読んで知っていた。
旅行に出る前、インドで彼らの姿を見たとき、自分がどのような感情を持つか、自分自身に対して興味を持ってもいた。
そして今日、実際に物乞いの人たちの姿を見て頭に浮かんだのは、「分からん」という感想だった。
「分からん」というのは、
「彼らはどういう生活をしているのだろう?」とか、
「彼らはどういうことを考えているのだろうか?」とか、
「彼らは本当に質素な生活を送っているのだろうか?」とか、
彼らのことが全般的に「分からん」という意味だ。
たしかに、彼らの身なりは粗末だし、周りの人に比べて痩せている気もする。
けれど目は輝いており、お金を渡した私に「サンキュー」と言う声にも張りがあった。
彼らはけっこう活き活きとしていたし、強かでもあった。
表面上に見えるものだけでは、その人のことなど分からない。
しばらく話をすれば、言動や雰囲気から何となく分かることもあるが、そういったやり取りもしなかった。
だから彼らのことは何も分からない。
このように書くと些かドライな気もするが、決して彼らに対して興味がなかったわけではないのだ。
ただ、彼らから少し話を聞いたぐらいで、本当の意味での理解などできやしないと思い、深入りしなかった。
その地で長く生活し、昔から彼らを見てきて、彼らがそこにいることが当たり前という感覚になってからでないと、彼らのことを本当には理解できないと思ったのだ。
だからこそ、一連の決まりきった行動様式を崩してまで、つまり、物乞いの人たちが私のそばに来て、私が彼らの手の上にお金を置き、一言二言の礼を言われるという流れに反してまで、彼らに話しかけようと思わなかった。
物乞いの人たちがどういう人たちなのかということは、私には分かりようもないことだ。
そして分からないからには、下手に感情移入をするべきではないし、深入りすべきでもないと思っている。
もし深入りするのなら、色々な意味での覚悟を持たなければいけないとも思うし。
小さい頃から、物乞いの人たちを間近に見ているインドの人たちは、彼らのことをどう思っているのだろう。