【秋月龍珉さん「一日一禅」講談社学術文庫】私と本との関わり

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生死について考え始める

私は大学4年生の春から夏にかけ、自分は何のために生きているのかと、ひたすら考えていた時期があった。

 

人に聞いても、自分が満足いく答えは返ってこず、本の中にひたすら答えを探し求め続けていた。

 

そのときに出会った本で、自己について考える上で大きな助けになってくれたのが、秋月龍珉さんの「一日一禅」である。

 

当ページでは、この一日一禅という本について書いていくが、まずは、私が生き死にについて考え始めた経緯を説明していこうと思う。

 

私は大学生のとき、理系の学部に在籍しており、私の大学では、理系学生のほとんどが大学院に進学していた。

私も当然のように院に進学するつもりでいたが、大学院に進学するためには、院試という試験に合格しなければならない。

 

この院試が結構厳しいものだった(実際に受けてみると、実はそれほど厳しくなかった)。

大学3年間で習ってきた、専門科目の筆記試験を行い、その後、専門分野の教授たちが数十人も並んでいる中で、面接を受けることになる。

 

皆が大学院に上がるのが普通だったので、私も、大学院には問題なく上がれるだろうとのんきに構えていた。

ところが、試験の内容を聞いた時から、試験内容のあまりの大変さと、落ちたら面目が立たないという思いで、非常に大きなプレッシャーを感じてしまったのだ。

 

それがストレスとなり、このころから死にたいと考え始めた。

 

橋を見れば飛び降りたくなり、睡眠薬なら楽に死ねるだろうかと検索して調べもした。

だが、死ぬことを実行するまでには至らず、どうすればこの苦しみから逃れられるだろうかという思いで一杯だった。

 

今にして思えば、このとき死について考えていたことは、現実からの逃避を考えていたにすぎなかった。

 

何とか院試から逃れたい、だが院に進むのは当たり前のことであり、院試を受けないという選択肢は取れない。

それならば、ここから逃れるには死を選ぶしかない、という風に考えていたのだ。

 

ここからさらに思考が飛躍する。

 

死にたいと思うのだが、中々踏ん切りがつかず、実行できそうにない。

死にたいと考えてはいたものの、実のところ、本当に死にたくはなかったのだ。

 

そこで、死ななくても良い理由(=自分が生きる理由)について考え始めた。

 

ここで冒頭とつながるのだが、このときは必死に、自分が生きる理由を考え、様々な本の中に答えを探し求めた。

読んだ本は多岐にわたり、ハウツー本や生物学の本、宗教、哲学、文学、歴史、芸術など、気になった本を手当たり次第に購入し、読んでみた。

 

中には、少しページをめくってそのままにした本もたくさんあったし、哲学の本、特にショウペンハウアーの本は、この中に答えがありそうな気がしたものの、読んでもさっぱり分からなかった。

 

ちなみに、この時に購入したショーペンハウアーの本は、今でも大切に取っておいてあり、たまに読み返している。

 

このときのことを振り替えると、私はただ単に現実逃避をしていただけだったのだ。

哲学の本を読むひまがあったら、少しでも院試の勉強に時間を割くべきであった。

 

ともあれ、そうして生きることについて悩みに悩んで考え抜き、幾多の本の中に答えを探し回った末、たどり着いたのが、秋月龍珉さんの「一日一禅」だった。

 



秋月龍珉さんの「一日一禅」

 

この「一日一禅」という本は、本分まえがきから引用すると、

数多くの「禅語」のなかから一年三百六十五日に一日一禅語を配してその禅的意味を鑑賞するような小冊子

だそうである。

 

ここで少し、「禅」について解説しておく。

私が色々な本で読んだりしたことを、ざっくりとまとめた事柄であるため、間違っている部分があればご容赦いただきたい。

 

」という言葉は様々な意味を持つが、仏教の宗派の一つ、禅宗のことを指す意味でも使われる。

 

ここで注意が必要なのが、禅宗というのは特定の宗派の名前ではなく、禅の宗派をまとめて言う言葉である。

日本では、曹洞宗・臨済宗・黄檗宗などが禅宗とされている。

 

曹洞宗での修行は、只管打坐と言われるように、ひたすら座禅を行うことが基本となる。

対して臨済宗や黄檗宗の修行では、公案と呼ばれる問題について究明していく(いわゆる禅問答)。

 

この修行方法の違いから、曹洞宗の修行は黙照禅、臨済宗や黄檗宗の修行は看話禅と呼ばれている。

 

さて、ここで紹介する本の「一日一禅」も、公案や禅語が載っているのだが、禅語の一例を本文から引用してみると、

趙州和尚が草鞋を頭の上にのせて出て行ったその意図は如何

というような問いが書かれている。

 

全編このような調子である。

 

本の中に答えは書いておらず、読んでも考えてもさっぱり分からない。

だがそこに、私は、「なぜ生きるのか」という問いの答えがあるような気がしたのだ。

 

この本に出会ってからというもの、私はひたすらこの本に取り組んだ。

飯の時もトイレの時も、歩く時でさえ片時も手放さず、ひたすら読み耽った。

 

当時から読んでいる「一日一禅」が今でも手元にあるが、カバーは凸凹になり、ページは汚れたり擦り切れたりしている。

 

一日一禅のページを開く度、新しい問いかけが自分を試してくる。

 

本を読むごとに、禅や禅僧の底知れなさを感じ、強い憧れを感じるようにはなったが、書いてあることの意味は、結局何も分からないままだった。

 

そんなこんなで時は過ぎ、大学院に入学するための院試が終わり、無事合格して進学することができたのだった。

 

その後について

今にして思えば、当時死について考えていたことは、自分を成長させる大きな糧となった。

 

人間誰しも、人生のどこかで大なり小なり死にたいと考えたり、自分はなぜ生きているのだろうと、生死について考えたりする時があるのではないかと思っている。

 

それは私の経験から言えば、何らかのつらい出来事があって、自分の存在が揺らいだ時、自分という存在の価値について再確認したいという思いから、そのような問いが発生するのではないかと思う。

 

理由はどうあれ、生き死にについて考えることは、自分の存在を確固にしていくために必要な過程であると思う。

 

私自身について言えば、「なぜ生きるのか」という問いに対し、今では自分なりの答えを持つようになった。

答えを簡潔に言えば、本能として死にたくないから生きているのだ、ということになる。

 

この世に生を受け、死にたいと思わないから生きている。

 

言葉にすると簡単であるし、人に説明すると、何だそんなことかと言われそうだ。

だが、これは私自身が悩みに悩みぬいて得た答えであり、その経験が伴っていないと、言葉の意味を本当に理解することはできないと思う。

 

ちなみに、大学院の入試はあっけなく終わった。

 

試験はあまり解けなかった気がするのだが、大学から同じ大学院への進学ということで、甘く見てもらえたようだ。私より点数が低かった人も結構いたようである。

面接にしても、教授たちがたくさん並んでいる中、当たり障りのない質問が2つぐらい来て、すぐに終わってしまった。

 

大学院への進学が厳しい場合、面接で色々なことを聞かれるらしいので、私の場合はまったく問題なかったようだった。

 

この時期生死について考えたことは、厳しい試験から目をそらすためでしかなかったのだが、それでも必死に考えたことで、確固たる自分自身の基礎が出来上がった。

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