【サダルストリートの物乞いの人たちについて】インドとネパールでの一ヶ月:その13
一ヶ月かけてインドとネパールを旅してきた時の記録です。
このページでは、サダルストリートでの一日目、サダル周辺で会った物乞いの人たちについて、考えたことを書いています。
物乞いの人たちにお金を渡す
BhojでKATLA KALIAを食べ終えた。
ゲストハウスに戻る前に、もう少しサダルの近辺を歩いておこう。
この辺りの地理はやっぱり難しい。
見知った場所に出て、このまま行けばゲストハウスに近付くかと思ったら、全然違う方向に行っていたりする。
道端には野良犬がたくさんいる。
インドでは宗教上の理由で、動物の殺生を禁じられているため、野良犬が多いと聞いたことがある。
野良犬たちは、昼間は丸まってぐっすり寝ている。
日が暮れてから朝方まで、活発に動き始めるようになる。
今は日が暮れる前で、通りには人が多く出ている。
声をかけてくる人もいるが、大多数の人はただ通り過ぎるだけ。
こちらには関わってこない。
やっぱり見ると聞くとでは大違いだ。
インドでは、道を歩いただけでたくさんの人に声をかけられるのだと思っていた。
そんなことを考えながら歩いていると、物乞いの男の人が、コインの乗った掌をこちらに向けてくる。
今はレストランを出たばかりで、小銭がある。
いくらかを手に乗せる。
その場面を他の物乞いの人たちに見られていた。
2人の女の人が来たので、その人たちにも小銭を渡す。
彼女らが手に乗せている硬貨より、少しばかり大きい額を渡した。
少し前、アキラさんのところにいたときに物乞いの人が来たのだが、ちょうど良い額のお金がなかったので、お金を渡さなかったことがあった。
そのことがずっと心に引っかかっていた。
物乞いの人たちについて思ったこと
サダルの一日目で、そこそこの人数の物乞いの人たちに会った。
街中を歩いて回っている人もいるし、一か所に動かず座っている人もいた。
インドに来る前から、街中に物乞いの人たちがいるというのは、色々な物で読んで知っていた。
旅行に出る前、インドで彼らの姿を見たとき、自分がどのような感情を持つか、自分自身に対して興味を持ってもいた。
そして今日、実際に物乞いの人たちの姿を見て頭に浮かんだのは、「分からん」という感想だった。
「分からん」というのは、
「彼らはどういう生活をしているのだろう?」とか、
「彼らはどういうことを考えているのだろうか?」とか、
「彼らは本当に質素な生活を送っているのだろうか?」とか、
彼らのことが全般的に「分からん」という意味だ。
たしかに、彼らの身なりは粗末だし、周りの人に比べて痩せている気もする。
けれど目は輝いており、お金を渡した私に「サンキュー」と言う声にも張りがあった。
彼らはけっこう活き活きとしていたし、強かでもあった。
表面上に見えるものだけでは、その人のことなど分からない。
しばらく話をすれば、言動や雰囲気から何となく分かることもあるが、そういったやり取りもしなかった。
だから彼らのことは何も分からない。
このように書くと些かドライな気もするが、決して彼らに対して興味がなかったわけではないのだ。
ただ、彼らから少し話を聞いたぐらいで、本当の意味での理解などできやしないと思い、深入りしなかった。
その地で長く生活し、昔から彼らを見てきて、彼らがそこにいることが当たり前という感覚になってからでないと、彼らのことを本当には理解できないと思ったのだ。
だからこそ、一連の決まりきった行動様式を崩してまで、つまり、物乞いの人たちが私のそばに来て、私が彼らの手の上にお金を置き、一言二言の礼を言われるという流れに反してまで、彼らに話しかけようと思わなかった。
物乞いの人たちがどういう人たちなのかということは、私には分かりようもないことだ。
そして分からないからには、下手に感情移入をするべきではないし、深入りすべきでもないと思っている。
もし深入りするのなら、色々な意味での覚悟を持たなければいけないとも思うし。
小さい頃から、物乞いの人たちを間近に見ているインドの人たちは、彼らのことをどう思っているのだろう。